日蓮宗の起源と歴史
日本に仏教が伝来し、飛鳥・奈良時代になると、次第に仏教が浸透するようになり、それぞれの経典や論書にもとづき、宗派を形成していくようになります。奈良時代の仏教は、経典や論書の研究が中心であり、三論宗、法相宗、華厳宗、律宗、倶舎宗、成実宗、と呼ばれる宗派に代表されます。
都が京都に遷り、平安時代になると、唐(中国)より新しい宗派が伝えられます。最澄は、唐で天台宗を学び、帰国後、比叡山に延暦寺を建立して、日本に天台宗を開きます。また、空海は、唐で密教を学び、帰国後、高野山に金剛峰寺を建立し、真言宗を開きます。
平安時代になると、中期から末期にかけて、浄土への信仰が次第に強くなっていきます。鎌倉時代になると、法然が浄土宗を開き、親鸞が浄土真宗を開きます。そして、一遍が時宗を開きます。その一方で、栄西は、宋(中国)へ渡り、臨済宗の坐禅を学び、帰国後、京都に建仁寺を建立し、日本に臨済宗を開きます。その後、道元も宋へ渡り、曹洞宗の坐禅を学び、帰国後、越前(福井県)に永平寺を建立し、日本に曹洞宗を開きます。
日蓮の生きた鎌倉時代は、お釈迦さまがなくなったあと、教のみが残り、完全な行の出来る者も証を得る者も現れない時代(末法時代)へ入っていました。 日蓮は鎌倉、京都、比叡山、三井、高野山、四天王寺などの諸寺に遊学し、仏教の経典をすべて読み、この時期に「法華経」が依りどころとすべき 唯一の経典であると確信したのです。法華経には、お釈迦さまは遠い昔から未来まで生き、永遠にあらゆるものを救いつづける、とくに末法の人々を救う、と書かれています。日蓮は、末法悪世の人々を救う法華経(妙法蓮華経・みょうほうれんげきょう)をひろめる役目が自分にあると自覚し、1253年4月28日安房国清澄寺にほど近い旭が森において「南無妙法蓮華経」の題目を初めて称えました。日蓮宗では、この日を立教開宗の日としています。日蓮32歳の時のことです。
その後日蓮は鎌倉の松葉谷に居を移し1260年に「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」をまとめ、鎌倉幕府に示しましたが受け入れられず、また激しい浄土教批判を展開したため浄土教信者の反感を買い、松葉谷の草庵を襲撃されたため下総に逃れます。【松葉谷の法難】
翌年鎌倉に戻ると今度は幕府に捕らわれ伊東に流罪となりました。【伊豆の法難】
1263年に赦免され翌年郷里である安房国長狭郡東条郷に帰りましたが、再度地頭の襲撃を受けたので、鎌倉に戻りました。 【小松原の法難】
これらの度重なる法難に対して、日蓮は法華経行者としての自覚を一層高め、1268年の蒙古の使者の来朝を「立正安国論」の予言の的中であるとして、幕府に反省を促しました。しかし回答がなかったため、諫状を当時の鎌倉幕府や諸寺に送り、諸宗との宗義の対決を求めましたが聞き入れられず、 問注所(当時の裁判所)に陳状を提出したのです。
1271年日蓮は評定所の呼出しに応じ、予言的中を述べ、諸宗との 対決をさらに求めましたが受入れられず、かえって幕府に捕らえられ、竜口で斬刑されることとなりましたが、たまたま異変が起こったため、処刑を免れ、佐渡に配流となったのです。【竜口の法難】
1274年赦免され、鎌倉に戻りますが、まもなく身延山麓に居を構えて移り住みます。ここで日蓮は日夜 「法華経」を称え、晩年の9年間を過ごしました。身延に移ってまもなく、蒙古の襲来があり、日蓮は「立正安国論」以来の自らの予言的中を述べ、これを末法の世に「法華経」を広めるための事件であるとして「撰時抄」を書きました。
1282年病によって身延山を下りるまで、恩師道善房のために「報恩抄」を撰したり、門弟に信仰生活の指導を行うなどその活動は衰える事はありませんでした。1282年病が重くなり、本弟子六人(日昭・日朗・日興・日向・日持・日頂=「六老僧」と呼ぶ)を定め、後を託し61歳で亡くなりました。
死後、皇室より日蓮大菩薩(後光厳天皇・1358年)と立正大師(大正天皇・1922年)の諡号を追贈されました。